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角野晒染と堺和晒の歴史

白い布から始める心地よい暮らし

私たち角野晒染の仕事場である工場のすぐ横には、石津川という川が流れています。かつてこの一帯は、河原や丘一面に白い布が天日干しされる、美しい風景が広がっていました。その川とともに、私たちは日々、木綿の生地と向き合っています。

約400年もの昔から、ここ堺の地で連綿と受け継がれてきた伝統産業、それが「堺和晒(わざらし)」です。

時代の流れとともに、世の中の繊維製品のほとんどは、強力な薬品と大型の機械を使って数十分で一気に仕上げる「洋晒(ようざらし)」へと変わっていきました。そんななかでも、この石津川の流域には、今も江戸時代と変わらぬ「釜炊き」の技法を守り続ける和晒工場が6軒残されています。たったこの6軒で、日本国内で流通する国産小巾木綿の和晒製品の9割以上を生産しています。

私たちは昭和6年の創業からまもなく100年を迎えます。曾祖父の代から四代にわたって長年守り続けてきた和晒の心地よさを現代の日常に届けるため、「これからの和晒」の姿を追い求め新しい挑戦を続けています。

400年のバトン――堺和晒と石津川

私たちの歴史をお話しする前に、まずは私たちが拠点を置く「堺」の地で、なぜ和晒という産業がここまで深く根を下ろすことになったのか、その歴史から紐解いていきたいと思います。

和晒の主役である木綿が日本で本格的に栽培され始めたのは、戦国時代末期の文禄年間(1590年代)のことと言われています。それまでの庶民の衣類といえば、絹は手の届かない高級品でしたから、麻や楮(こうぞ)、藤といった硬い繊維の衣類に頼るしかありませんでした。寒風吹きすさぶ冬の寒さは、現代の想像を絶する厳しさだったでしょう。そこに温かく丈夫で吸水性に優れた木綿が登場したことで、人々の暮らしを大きく変えました。

特に、大阪南部にあたる「泉州(和泉国)」は、日本屈指の木綿の大生産地として栄えることになります。元禄7年(1684年)の記録によれば、和泉国大鳥郡では実に田畑の半分が木綿栽培にあてられていたといわれています。

しかし、織り上がったばかりの木綿生地(生機/きばた)というのは、そのままでは使えません。綿花自体が持つ天然の油分や綿カス、さらには糸を織る際に摩擦で切れないように施された固い糊(サイジング糊)がびっしりと付着していて、水をまったく吸わない状態なのです。
この不純物をきれいに洗い落とし、純白で柔らかな生地へと生まれ変わらせる工程を「精錬・漂白」、いわゆる「晒し(さらし)」と呼びます。

堺の津久野や毛穴(けな)といった地域は、大消費地である大阪と、綿花の産地である泉州のちょうど中間に位置していました。そして何より、精錬や水洗いに欠かせない清らかで水量豊かな「石津川」が流れていたこと。これらの条件が重なっていたことで、江戸時代のごく初期から、この地で独立した専門の産業として「さらしや」が発展していったのです。

当時の和晒づくりは、今では考えられないほど骨の折れる仕事でした。巨大な木製の釜に生機と藁灰(わらばい)を入れて何時間もじっくりと焚き込み、それを石津川の冷たい清流へ運んで、職人たちが腰まで水に浸かりながら洗う。さらに、石臼と木杵を使って、生地の奥に入り込んだ悪汁や糊を力強く叩き出す。これを何度も何度も、気が遠くなるほど繰り返したのです。江戸時代の中頃には、一枚の和晒が仕上がるまでに、実に一ヶ月近くの月日を費やしていたと記されています。

寛政八年(1796年)に発刊された『和泉名所図会』という古い資料にも、石津川の河原で和晒を洗い、天日干しにする職人たちの姿が誇らしげに描かれています。そこには、「此河水にて、布木綿を晒し浪花に出し染地とするけり」と書き添えられており、石津川の水が、先人たちの技術を支えていたことがよくわかります。

こうして、街道や港を通じて全国へと送り出された堺の和晒は、日本中の人々の肌に寄り添い、清潔で快適な暮らしを陰で支え続けてきたのです。

釜炊きへのこだわり――なぜ私たちは効率に逆行し続けるのか

明治時代に入ると、日本にも近代化の大きな波が押し寄せました。繊維産業の現場にも西欧から、「晒粉(さらしこ)」を用いた機械式の漂白法が導入されていきます。

巨大なローラーと自動の精錬機を使い、生地を強い力で引っ張りながら、強力な薬品で一気に処理する。これによって、かつて何日も、あるいは何週間もかかっていた漂白工程が、わずか40分から1時間ほどで終わるようになりました。人々はこの新しい近代的な製法を「洋晒(ようざらし)」と呼び、それに対して、昔ながらの釜で焚いて川で洗う、手間ひまのかかる伝統的な製法を「和晒(わざらし)」と呼んで区別するようになったようです。

効率と大量生産を考えれば、洋晒が優れています。一方で、木綿素材が本来持っている、いちばん大切な「柔らかさ」と「吸水性」が損なわれてしまいました。
洋晒の生地は、強力な薬品で無理やり白くし高熱とローラーの強い圧力(テンション)で引き伸ばされることで、綿の繊維は大きなストレスを受けます。その結果、繊維の形状は押し潰されて扁平な形になってしまい、繊維同士が擦れて痩せ、仕上がりはどうしても硬く、ごわごわしたものになってしまうのです。そのため、洋晒では仕上げの工程で化学的な柔軟剤や樹脂などを添加して表面をコーティングして風合いを「整える」のが一般的になりました。

これに対して和晒は、巨大な釜の中に、折り重なった綿布の原反(げんたん)を引っ張りも伸ばしもせず、自然な状態のままで入れます。そして、最低限のアルカリ剤と水、あるいは天然の酵素の力だけを使い、4日間かけて、じっくり、ゆっくりと煮るように精錬していきます。
精錬が終わった生地は、何度も丁寧に水洗い。圧力がかからず釜の中の穏やかな水圧だけで優しく洗われた綿の繊維は、一本一本の形状が壊されることがなく「真円(ほぼ円形)」を保っています。
この「ほぼ完全な真円を保った繊維」こそが、和晒にしか出せない機能性を生み出しています。

柔らかな肌触り:繊維が丸いため、肌に触れる面積が小さく、チクチクとした刺激がありません。最初から、使い込んだかのようなふわっとした肌触りがあります。

吸水性と発散性:潰れていない繊維が優しく重なり合うことで、糸と糸の間に豊かな隙間が生まれます。この隙間が「毛細管現象」を引き起こし、汗などの水分を素早く吸い上げ、外へと逃します。

夏は涼しい通気性、冬は暖かい保温性:多層のガーゼに仕立てることで、繊維の間に空気の層が生まれます。これが天然の断熱材となり、夏は寝汗を吸ってサラッと涼しく、冬は体温を閉じ込めて暖かく保ってくれるため、一年中快適に過ごせます。

敏感肌や赤ちゃんにも安心の安全性:4日間かけて繊維の奥まで不純物を取り除いているため、アレルギーを引き起こす残留化学物質が少なく、仕上げに余分な柔軟剤や化学染料も使わないため、赤ちゃんの素肌にも安心して使える生地です。

洗うほどに育つ風合い:洋晒では生地表面の細かな毛羽を熱で焼いてしまうことが多いのですが、和晒は自然の毛羽をそのまま残します。毛羽が、洗えば洗うほど優しく立ち上がり、ふんわりと柔らかく馴染んでいく「育つ生地」にしています。

洋晒の効率優先の波に押され、日本全国から和晒釜が消えかけていくなか、堺の職人たちは強い信念を持ってこの非効率な伝統を守り続けています。

戦火を越えた――和晒と注染の出会い

堺の和晒の歴史を語る上で、もうひとつ運命的な大切な出来事があります。それが、明治時代の中期に大阪で生まれた染色技法「注染(ちゅうせん)」との出会いです。

注染とは、型紙を使って防染糊を木へらで生地に塗り、生地をじゃばら状に何枚も折り重ねた上から染料を直接注ぎ込んで染めるという、非常に高度な手仕事の技です。一度に数十枚を染め上げることができ、染料が生地を裏までしっかりと通り抜けるため、裏表がなく鮮やかで洗っても色褪せしにくいという特徴があります。

この注染を行うために、欠かせなかったのが、私たちの「和晒」の生地でした。

注ぎ込まれた染料と繊維が接触するのはほんの一瞬です。その瞬間に、染料をムラなく、繊維の芯まで吸い込ませるには、繊維の断面が丸く、豊かな空気層と毛羽を持ち、余分なコーティング剤がついていない和晒の生地でなければ、美しい染め上がりが得られなかったのです。
「上質な和晒があるからこそ、注染の美しい色彩や、職人の匠の技による鮮やかなぼかし、にじみの風合いが表現できる」――そうして、堺の和晒と大阪の注染は、互いを必要とする深い絆で結ばれていきました。

しかし、昭和の大きな戦争が、この二つの産業の運命を大きく変えることになります。

第二次世界大戦の激しい空襲により、大阪市内にあった注染の染工場の多くは、壊滅的な打撃を受けてしまいました。職人たちは、焼け野原となった大阪から、和晒を生産していた産地であり戦火を免れた「毛穴・津久野」へと移転してきたのです。
これにより、それまでは別の場所で行われていた「和晒(漂白)」と「注染(染色)」という二つの技術が、石津川の流域でひとつになりました。

川の上流で白く晒された和晒が、すぐ近くの染工場へと運ばれ、色鮮やかな浴衣や手ぬぐいへと染め上げられていく。この地域一貫の生産体制が確立されたことで、堺は全国一の注染・和晒の産地へと発展していきます。

令和元年、この二つの手仕事によって生まれる浴衣や手ぬぐいは、「浪華本染め(なにわほんぞめ)」として、国の伝統的工芸品に指定されました。その原材料の要件には、厳格に「綿織物、綿麻織物の和晒」と定められており、私たちの守ってきた技術が、伝統の絶対的な土台となっていることを本当に誇りに思います。

角野晒染の誕生――一貫生産体制の確立

私たちの会社、角野晒染株式会社が産声を上げたのは、この堺の和晒と注染が地域一貫の産業として活気にあふれていく昭和6年(1931年)のことでした。現在の代表である私の曾祖父・角野末吉が、個人創業として和晒の加工を始めたのがその第一歩です。

昭和23年、曾祖父の急逝に伴い、私の祖父である角野一雄が二代目として家業を継ぎ、昭和26年に法人へと改組しました。
この二代目の祖父・一雄が、非常に先見の明がある経営者でした。

当時は、織物問屋から生機をお預かりし、晒し加工だけを施して加工賃をいただく「下請け加工(賃整理加工)」が業界の当たり前の構造でした。しかし、ただ問屋からの依頼を待つだけの体制では、繊維業界の浮沈に直接左右され、自分たちの技術の価値を自ら決めることができません。

「自分たちの手で、糸の仕入れから、和晒、染め、そして製品にするための縫製までを一貫して手がけることができれば、本当にお客様に喜んでいただける、最高品質の和晒製品を直接届けることができるはずだ」。そう考えた祖父は、昭和50年に小巾用のロール捺染機を導入し、昭和53年、それまでの加工整理業から、自社で製品を企画・製造して直接販売する「製造直販」へと経営方針を劇的に転換したのです。この業界の常識を覆すような決断が、現在の角野晒染を支える「国内唯一の和晒・染色・縫製一貫生産体制」の原点となりました。

このバトンは、昭和60年に三代目に就任した私の伯父、角野登へと受け継がれます。伯父の時代には、一貫生産の品質をさらに極めるため、和晒精錬の心臓部である釜の近代化に挑戦しました。平成5年、晒加工釜を三菱ガス化学社製の「角槽バスケット棚段方式」に統一し、日本初とも言えるコンピュータ制御による全自動和晒釜を導入したのです。

伝統技術にコンピュータを導入することは、一見すると「機械化による合理化」のように聞こえるかもしれません。しかし、それは全くの逆でした。従来の職人の勘に頼っていた釜炊きの温度や水流、圧力の推移を徹底的に数値化しコントロールすることで、「生地に余分なテンションをかけず、4日間じっくりと繊維の奥まで均一に精錬する」という、和晒の最も理想的な状態を、驚くほど高い精度で安定して再現するための、まさに伝統を「守る」ための投資だったのです。

こうして仕入れから出荷まですべての工程に責任とこだわりを持つことができる、角野晒染独自の生産体制が完成しました。

一貫生産の拘り――0.1グラムの色彩と酵素和晒の挑戦

平成22年(2010年)、私は四代目として代表取締役社長に就任しました。私が入社した当時はまだ下請けの加工賃収入が中心の会社でしたが、祖父や伯父が築いてくれた一貫生産の基盤を必死に活かし、現在では自社で企画・製造したオリジナル製品の売上が全体の約9割を占めるまでに変化しています。

通常、繊維業界では、糸を織る「織布」、白くする「晒」、柄を染める「染め」、形にする「縫製」は、それぞれ異なる専門会社が分業で行うのが当たり前です。でも、私たちはこのすべてのプロセスを、自社工場と、堺・泉州の地域ネットワークの中で完結させています。
この体制があるからこそ、私たちはどの工程においても妥協のない、顔の見えるものづくりを貫くことができます。

例えば、生地の優しさを極限まで高めるために、私たちはアルカリ性や酸性の化学薬品を一切使用せず、天然の酵素の力だけで生機の糊や不純物を分解する「酵素和晒」を独自に開発しました。地球環境にも優しくエネルギー消費も抑えながら、通常の和晒よりもさらに繊維を傷めずしっとりと滑らかな素肌に優しい柔らかさを実現しています。

そして、染色する「色づくり」の現場にもこだわりが息づいています。角野晒染の調色・配合を一手に担っているのは、専務取締役を務める私の実の兄です。
兄はもともと「歯科技工士」という、全く異なる経歴を持っていました。義歯の微妙な色調や噛み合わせを微調整する、極めて緻密な手仕事の世界で生きてきた兄ですが、その世界で培われた「色彩感覚」と「集中力」を武器に、独学で十年以上にわたって染料の調合研究を重ね、角野晒染の「色」を作り上げています。

染料の配合は、わずか0.1グラム単位のズレが仕上がりの色を全く変えてしまう、本当に繊細な世界です。さらに、紙に描いた色見本と、水をたっぷりと吸い込む和晒の生地の上では、発色の仕方がまるで異なります。

「スクリーン捺染の歴史ではまだ若いが、古くからある染工場には絶対に負けたくない」

長年の経験と手の感覚、そして色彩眼を頼りに、その時々の気温や湿度の変化まで読み取りながら、美しい色彩を表現し続けています。

現代の暮らしに合わせた自社ブランドの展開

「この素晴らしい和晒の着心地を、ただの伝統として博物館に飾るのではなく、現代の日常にこそ届けたい」。この強い想いから、私はこれまでにいくつかの自社ブランドを立ち上げ、和晒の新しい可能性に挑戦してきました。

初めに取り組んだのが、和晒の良さを極限まで活かした和装ホームウェアブランド『優柔〜yu-ju〜』です。なかでも、シャトル織機で極めて低速でゆっくりと丁寧に織られたドビー織の生地を使用した「纏(まとい)」シリーズは、糸にほとんど負担がかかっていないため、表面に豊かな凹凸があり、驚くほど軽やかで、とことん肌に優しい極上の着心地を実現しました。この製品は、大阪が誇る優れた製品に贈られる「大阪製ブランド」の認定をいただき、全国の百貨店などでも高い評価をいただいています。

さらに、女性の快適な睡眠を徹底的にサポートするために開発したのが、二重織ガーゼパジャマの「panema(パネマ)」です。「panema」に袖を通していただくと、赤ちゃんの産着に包まれているかのような、心から安らぐ柔らかさに驚かれると思います。
デザインにも工夫があり、冷え性の女性のために前身頃の打ち合わせ(重なり)を深く設計することで、就寝中にお腹や腰回りが冷えるのを守る構造になっています。おかげさまで、「一度着て寝たら、あまりの気持ちよさに、もう他のパジャマでは眠れない。洗い替え用にもう一枚買い求めました」という、嬉しいリピーターの声が全国から届いています。

また、綿と麻を絶妙なバランスで混紡したアパレルブランド「MUSUBI(むすび)」は、手間暇かけてつくられる和晒の質感と、お気に入りの服を丁寧に長く楽しみたいと願う幅広い年齢層の女性から支持をいただいています。

そして、これからの和晒のスタンダードとして、私たちが新たに提案しているのが、ファクトリーブランド「tututata(ツツタタ)」です。ブランド名は、日本人が古来、一枚の布に対して行ってきた愛おしい所作「包む(つつむ)」「畳む(たたむ)」の美しい音の響きから名付けました。

「tututata」の手ぬぐいは、一般的な手ぬぐいに多く使われる細い「岡生地(30番手)」ではなく、あえて少し太めの糸でざっくりと、肉厚に織り上げた特上の「総理(文)生地(20番手)」を採用しています。
これにより、手ぬぐいとしての優れた速乾性はそのままに、ハンカチやキッチンふきんとして毎日洗ってもへたれにくく、吸水性と耐久性を持たせることに成功しました。
さらに、通常の手ぬぐいは端が切りっぱなしですが、「tututata」は両端に美しく丁寧な「端かがり」縫製を施すことで、日常の中でハンカチ代わりとしてポケットからサッと取り出した時にも、ほつれを気にせず、端正でモダンな佇まいを保てるように仕立てています。

伝統的な和晒を、北欧テキスタイルのような洗練されたグラフィカルなデザインで染め上げ、ハンカチ、ランチクロス、キッチンふきん、スカーフなど、暮らしのさまざまなシーンでの使い方と一緒に提案する「tututata」は、若い世代や、これまで伝統工芸に触れる機会の少なかった人々に対しても、和晒を「現代の暮らしの万能な道具」として新しい風を吹き込んでいます。

次の100年の未来へ

私たちは「伝統とは、ただ過去の遺産を大切に守り続けることではない。今を生きる人々にその素晴らしさを実際に体験してもらい、心からのファンになってもらうことが、技術を次の世代へ繋ぐ道」と考え、工場の敷地の一角に大きな挑戦となる場所をつくりました。それが、2021年3月にオープンした「雪花(せっか)絞り染め体験工房」です。

かつて、地域の企業や注染職人たちと一丸となって開催した「手ぬぐいフェス」で、手ぬぐいの染め体験コーナーが、一時間待ちの行列ができるほど盛況したことが、工房設立のきっかけでした。

体験工房では、実際に私たちが仕上げた真っ白の和晒生地を使い、職人の指導のもと正三角形や二等辺三角形に丁寧に折り畳んで、自分自身で染色する「雪花絞り」を楽しんでいただくことができます。

染料がじわじわと和晒の円形繊維に吸い込まれ、布を開いた瞬間に、世界にひとつだけの万華鏡のような鮮やかな雪花模様が浮かび上がる――その瞬間の、みなさんの感動とキラキラした笑顔を見るのは、私にとっても本当に至福の時間です。
今では、子どもから大人、そして日本を訪れる外国人観光客の方々、さらには香港やアメリカなどの海外の学校が、修学旅行の体験学習プログラムとして訪れてくれるケースも増えています。

体験を終えた参加者の方には、和晒工場の見学も実施しています。巨大な釜から蒸気が勢いよく立ち上る圧倒的なスケール感や、水を含んで十キログラム以上もの重さになった白き布の塊を職人たちが笑顔で全身の力を使って力強く脱水機へと運び上げる、手仕事の現場を間近で見ていただけます。「こんなに非効率で人の手と想いが詰まった工程を経て、あの優しい肌触りの寝巻や手ぬぐいが生まれていたのか」と知っていただき、和晒のファンになってもらえると嬉しいです。

この誇れる現場を支えてくれているのは、地元のだんじり祭りを通じて固い絆で結ばれた友人や、私の親しい級友たちを中心とする、業界では平均年齢の若いメンバーです。重労働で後継者不足が叫ばれる伝統産業のなかにあって、私たちの工場にはいつも、若い職人たちの明るい笑顔と活気、そして誇りに満ちた心意気が満ち溢れています。次世代の若い職人の採用と育成にも、私たちは今、本当に着実に取り組んでいます。

まもなく創業100年。私たちは、ただ古い歴史を守るだけの会社ではありません。この堺の地から、世界中をあっと驚かせるような、美しくて心地よい『これからの和晒』を考え、世界一愛される手ぬぐいと和晒の会社にしていきたい。その想いを胸に、私は次の100年の未来へ向かって、みんなと一緒に走り続けていきます。